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真宗大谷派(東本願寺)女性室 あいあうNET

男女両性で形づくる教団をめざして

私たちを取り巻く性についてのあたりまえ−誰もがあれ?と思っても口に出せない−そんなあたりまえを、みんなで考え話し合う場をつくりたいと活動しています。


〜おとなの息子〜 平山亮さん インタビュー



平山亮さん

1979年 神奈川県生まれ。東京都健康長寿医療センター研究所福祉と生活ケア研究チーム研究員、従来の複雑なジェンダー不平等の構造を可視化するべく、国内外に蓄積された豊富な情報からの分析に基づく繊細な考察を行う。

*このインタビュー記事は、真宗教化センター「しんらん交流館たより」第2号の18〜19頁を基に作成しています。


 息子介護


まず、どのようなきっかけから「息子介護」について研究されているのですか?


 もともと男性の対人関係の研究をやっていたんです。夫婦の関係であったり、友達関係、会社での関係など。そういう中で一つだけ、あまり語られてこなかった対人関係があると気づきました。それが、親との関係なんです。
 例えば「職場」でどうあるべきかとか、「夫」として「父親」としてどうあるべきかという話は、普段の会話の中にも出てきます。にもかかわらず、「息子」としてという話は、日常会話や男性研究の中にあまり出てこない。それで「おとなの息子」について考え始めたら、その親がたいてい老年で介護を必要としている世代だったことから、「息子介護」を通した男性の人間関係の研究になりました。 


 男性と弱音


著書の中で、男性同士で介護の経験が共有されづらいのは、男性は弱音を吐きづらく、弱さを語る言葉を持っていないからだということが指摘されていました。その一方で、女性に対しては弱音を吐ける、と。


 男性が、弱音を吐いてはいけない、つまり男らしくいなきゃいけないと思っている相手とは、基本的に同性を想定しているんですね。女性に対してはいくらでも愚痴を言ってるし、文句も言って、その聞き役に自然になってもらっている。
 今までの男性研究では、「男らしさの規範の中で男性は思っていることを言えない」という前提になっていました。でも実際には男性もあちこちで愚痴を吐いたり弱音を吐いたりしていて、その相手は大抵女性か目下の者なんですね。つまり、対等な存在だと思っている相手にだけ男らしく振る舞っていればいいのであって、実際に吐いている弱音はなかったことにして「自分は男らしく生きている、男らしく生きさせられている」と思っている。「男らしい規範に沿って男らしくいなければいけない」という時、一体誰との関係のもとで男らしくいなきゃいけないのかというところがポイントだと思います。


 「男らしさ」イコール理性的?


 一般的に、「男らしさ」の一つとして「感情を抑え常に理性的である事」が挙げられます。その一方、いざ出てきた感情をどうコントロールするかというところはあまり語られません。怒りに任せて何かをやってしまったとか、悲しみのあまり暴発してしまったとかいう時、出てきた感情に左右されなすがままになることは、「男らしさ」の規範からは外れないわけです。
 むしろ、相手を慮って自分が思っていることを言わないようにする配慮や気遣い、つまり出てきた感情を表に出ないようにする、コントロールする、それに動かされないようにする、みたいなことは女性性と結びついています。
 男性性と女性性について、よく「男性は感情に抑制的で、女性は感情を表す」みたいに考えられていますが、実際の場面で求められたり許されている行動は、どうも違う。例えば怒りなどネガティヴな感情に任せて何かをする事については、女性の方がより否定的に評価されます。そういう意味では、男性の方が感情を表すことを「許されている」と言えるのではないでしょうか。


 気遣いの関係性


 男性は、職場とかお客さんとの関係ではそれなりに気を遣っているし、いわゆる女性性と捉えられるような配慮や気遣いをすごくしているはずなんです。だけど例えば家庭の中など私的なもの/内なるもの(プライヴェート)での関係、その中でも特に対女性との関係になると、途端にそれをやらなくなってしまうのです。
 そういう自分のしている行動を内省するような部分−個々の対人関係のところでできるアプローチが、もっと必要ですよね。でも男性は他人事になりがちなんです。


 「らしさ」の問いを立てる


 男性性とか女性性について語られている表面的なこと―例えば「男らしい男性は弱音を吐けない」とか―は、実際の男性を表しているというより、男性を「そう見る」ために使われている知識なのではないでしょうか。それらは、男性や女性の「事実を表す」というより、「その言葉に当てはまらない現実を斥ける」ために機能しているのではないかと思います。
 一般にある「”男らしさ”や”女らしさ”が私たちの行動をどう縛っているか」という問いのたて方でなく、「そもそも男性性とか女性性をどういう風に規定して語ってきたか、その語り口自体が今の性の不平等な関係を作っていないか?」という風に問いを建て替える必要があるのではないかと思っています。

 依存と見せない依存


 多くの男性は成人後、「息子であること」から距離を置くことこそが成長した男性であるかのように思い込んできました。「息子であること」は「ケアされる存在である」ことだと捉えられるからです。特に男性は、自分では自立している、自立していなければいけないと思う傾向にあります。しかし、誰にも支えられていない完全なる自立というのは現実にはあり得ないわけです。それでも自立だと思えるのは、誰かに頼っていたり、誰かにやってもらったりしていることを、なかったことにしているからなのです。そして、男性にとって「誰かからの自立」といった時に、その「誰か」に女性は入っていないというのが、男性の人間関係の根本にあると思っています。「男らしい」自立と自律は、女性への依存を当初から織り込んだまま、その依存を依存として見せないことで成り立っていると言えます。

そもそも人は他者との関係や支えなしでは存在できないはずですよね。


 社会の中で、そういう感覚がもっと中心になってくれたらいいんですけれど。現在一般的には、社会とは基本的に自立している人たちの集まりで、依存的な人はそこに「入れてもらう」存在として捉えられていることは、岡野八代さんのような研究者が明らかにしています。しかし、そんなに自立している人ばかりではないというか、そもそも誰にも寄りかかっていない自立状態というのは思い込みだから。そこの社会観みたいなところが根本的に変わっていく必要があると思います。

 下駄から降りる


 ジェンダーの不均衡な関係に気づくことを生活の中でやらない限り、たぶん男性は、知らずに履かせてもらっている下駄から降りることができないのではないでしょうか。

そこに自分から気づいていくって、なかなか難しいですよね。


 そうですね、日常の中で慣れてしまっているというか。でも、関係の不均衡さについて、すでにあちこちで声にされていると思うんです。本当は耳を傾ければすぐに聞こえてくるはずのことを聞こうとしてこなかっただけではないでしょうか。気づくのが難しいというのは、実は自分の方に気づきたくない気持ちがあって、意図的にそうしてきたということがあるはずです。
 自分の意図とは関係なく自分の方が優位に立って相手を動かしてしまっているかもしれないという可能性に、ひとつひとつ敏感になるということが必要なんだと思います。