人間が人間であるために

自分の色 渡邉智子(高田教区)

 高校生の頃に、『仏説阿弥陀経』の口座を聞きに行ったことがありました。

  青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光(『真宗聖典』126頁)

青い色は青い色のままに光り輝くという法話に、どんな人も、もちろん私も、このままで輝くのだと晴れやかな力強さを感じたものでした。

 その後、縁あって僧侶を志し、真宗寺院と関わるようになったのですが、私が聞いてきた教えと、現実の様子では大きなズレがあることを感じながら今日に至っています。

 中でも女性に対する考えは、「男女平等」という言葉とは裏腹に、寺も家も主はなるべく男性、さまざまな物事を決めるのも多数の男性、昔ながらで、何の問題もなしという状況が思いのほか根強くあります。

 この現状に疑問を抱きながらも、何とかその常識に合わせて生きようと思えば生きられないわけではありません。多数の意見に従い、波風を起こさないように、角を立てないように、にこにことしていれば「善き坊守」と言われると思います。ただ、それは決して自分がこうありたいと思う「自分の色」とは言えないですし、こうありたいと思って目指してきた姿でもありません。出来るものなら自分のあり方は自らの意志と責任とにおいて選択したい。一人ひとりがすでに持っている色のまま光り輝くとはどういう状態を指すのだろうかと、『仏説阿弥陀経』の一節をいつも思い出しています。

 男性が主力で女性は影で支えるという旧来のあり方は、今は性別にとらわれない新しい価値観に変わってきています。それは男女ということで言えば、男性ばかりであったところに女性も共に参画していくことだと思いますが、ただ「女性が」ということではなく、いろんな人のいろんな思い、考え、さまざまな個性の色を尊重することが、本当の平等参画の実現につながるのではないかと思います。

『同朋新聞』2021年2月号