森喜朗元JOC会長の発言について 女性室スタッフ座談会 2021/3/11
「女性を四割入れるという目標を目指すように文科省がうるさく言ってくる」という発言からは、アファーマティブアクションに対する拒否感、抵抗感が社会の中でうっすらと共有されていることを感じる。組門徒会員に、各寺院から女性門徒を一人は入れましょうというときもそうだったけど、女性の枠を設けると、「逆差別」「資格の無いような人も数合わせのために入れられてしまう」と心配されがち。なぜ、女性の数を増やそうといった時だけ、その人の能力がまるでないかのように言われるんだろうか。役職につく男性も、その人個人の能力もあるが、その人が立つ立場によって選ばれることも多いはず。「女性の数を」と言った時に感じられる反発には、女性が自然と発言する場から遠ざけられている現状への無理解や、この社会にしみついている偏見がベースにあるんじゃないのかな。
森さんは、ジェンダー平等や黒人差別などが世界で問題になっているのに鈍感で、古い感覚のままで発言されたように思う。JOCの会長が、オリンピック憲章に謳われている男女平等の理念に反することを発言したから、ここまで問題になったけど、森さんと同じ感覚の人も多いのでは?宗門内でも、教化委員会に女性を3割入れましょうと言ってもなかなかできていない現実があるね。政策決定の場にも女性をもっと増やさないと…
森氏の発言は、そのまま日本の文化なのかも。「頭を下げてお願いされたなら聞かんでもない、ああしろこうしろって偉そうに言うから俺は聞けないんだ」と言う年配者がいる。それならもう条例で”上から”決めてもらうしかないのかな?
「わきまえない女」という言葉が今回のことで話題になったね。わきまえない女として初めから強く発言すると、反発され聞いてもらえないことがよくあった。わきまえる女と、わきまえないで発言するのと、微妙なバランスの中で今までやってきたということを、新聞で樋口恵子さんの文章を読み、自分もそうだったなと思ったよ。
※樋口恵子・・・あいあう10号女性会議講義概要掲載
あの発言で思ったのは、わきまえる女の人とわきまえない女の人を対立させて、わきまえる方が得だろって、言葉の外でメッセージを伝えてくるやり方だな、ということ。いつもこういう風に、個人を分断してコントロールしていこうという構図が見えてくる。
それに、女の人だけでなく男の人にもわきまえて欲しいと思っている発言だった。森さんは、会議が長引かないよう、男の人にも反対意見を言わさせない無言の圧力をかけているセリフだって分かってるんだろうか。
多くの男性がいるところで女性が意見を述べることはそもそも難しいし、女性に限らず若い人も同じ。教区の中にも本山の中にも、JOCと同じ光景があると思った。森さんだけの問題ではないな、と思いながらこの発言は聞いている。
「うちの女性たち(JOC)はみんなわきまえておられる」発言は、確かに男性も 物を言いづらい空気があるよね。
谷口真由美さん曰く、ラグビー協会では既に女性4割、外部者が全体の25%なので、外部の人(男女)への用語説明や逆に各外部専門分野からは、例えば谷口さんだとスポーツマンをスポーツパーソンと言う等の提案を行う時間をかけているとのこと。そういうことに不慣れなのが日本の文化で、多様な人がいる会議に慣れていないためか、それを森氏は、女性全般、話が長いと感じたのではないかな。
これまでの男性社会(例;ラグビー・JOC協会)は、ホモソーシャル(男性同士のつながり)の中だけで通じる言葉や、共通認識(女遊びをして一人前、のような)の同調圧力ばかりで、せっかく出た男性(若者含む)の多様な意見も、わきまえるように仕向けられてきたのでは。
ホモソーシャルの対をなすのがミソジニー。同調圧力で根回しで物事が決まる男社会ってことが問題だよね。これは女の問題じゃなくて、男が問題にされていることに気がつかないといけない。
そもそもが、女性を40%にしてくださいって、なんでお願いしなくてはならないの?社会の男女比が概ね1:1なら、役職者だって50:50くらいになるはずなのに。宗門でも議決機関や教化委員会の場では、いまだに女性3割も満たせていない現状だし。
本山や別院のお朝事でも、普通寺院でも、蓮如上人の『御文』を拝読しているけど、その中に”女は三世の諸仏に見捨てられてる”とか、”女は男より罪深くてあさましい生き物だ”という表現がある。聖教から省くべきとは思わないけど、宗門として、なんて言えるんだろう。僧侶である自分も、他人事ではなく責任を感じる。
※『御文』→東本願寺HPへリンク
森さんの発言は「だから女性は入れるな」で、『御文』は「だから(阿弥陀如来のすくいの対象に)入る」で、帰着点は全然違うけど、ものすごく似ている印象は与える。
世代によっては「女性は一歩引いてて当たり前」という感覚を常識として持っている人に対して、どうアプローチしたらいいのかが、私のリアルな課題です。家族でも…。
粘り強く言い続けるしかないね。私も時々心は折れるけど、伝えようと努力しているよ。
「住職さん」と持ち上げられて生活していると、自分が一番正しいのではないかと勘違いしそう。森さんも社会的地位がある人だからそんな感じになってしまうのかな。それも自分では気づけないし、例え近い人に言われても腹を立ててしまうこともある。なかなか難しいです。
森さんの発言に対して、自分の親も近いなと思った反面、自分は全くそうでないかというと、正直それもちょっと自信がない。今の子どもたちは私たちよりフラットな教育を受けている。それに比べたら、森さん的要素は自分にもあるような気が…。
そうですね、それぞれに持っているかも。それでも、今までだったら何事もなく流されていたような発言が、問題は問題として押さえられるように変わってきたことには希望を感じます。自分が明らかに間違ったことを言っているのに、誰も指摘してくれないというのも怖い。だから、周りの人がどうリアクションするかということもすごく大事なんだろう。森さん的な発想の人も、そこで考え方が変わっていく可能性はあるんじゃないかな。
今回の森さんの発言は、社会的地位を持った人の、公の場での発言というのが非常に大きいです。だからこそ、本山からも、地位のある人が「森さんの発言」に対する問題を、私たち一人一人の課題だということを発言(発信)することも大切です。
あれだけはっきりした発言でも、同調する女性もいるんだよね…、そういう人にどう伝えたらいいだろう?
ちょっとした失言で引きずりおろされて森さんが可哀想って聞きますね。発言の質がどういうものだったかが共有できなくて、ただみんなから寄ってたかってやめさせられた、いじめられてかわいそうというところだけが見えてしまってて。
今回のような発言も、お世話になった方の発言とか、関係性によっては指摘しづらいものがある。
お世話になったからとか、年配者やから立てようという気持ちで頭下げるのは、まだわかる。でも、「私は女やし頭下げとこ」ってのは、その下げる頭がもったいないと思う。
信頼関係ってありますよね。自分が信頼できる人には「こういうの差別やと思う」って言えるけど、きっとわかってもらえないだろうなと思うと、言う気も失せてしまう。「嫌だ」と伝えること自体も諦めてしまうとこってありません?
問題のある発言が出てきた時にすぐ反応するのは難しい。他の人が言ってくれるだろう、私がしゃしゃり出なくてもいいかと思って、そのまま流れてしまうってこともある。
森さんのあの発言の後に、「あの表現は良くない、訂正したほうがいいよ」と言ってくれる人がいて、森さんが「あ、そっか、ごめん」と訂正してたらこんな大ごとにはならなかったはず。
結果としては誰も森さんに指摘しなかったし、その場にいた人の誰も違和感すらなかったんだったら怖い。でも自分より上の立場の人に対してそういった指摘はしづらいな。
いつ言おうかと思っているうちに終わってしまうこともあるし。
この発言に、指摘する人がいなかったことを批判する論調もありました。「黙っていることがダメなんだ、だから自分も発信する」と。一方でそれに対しても「すべての人間が発信しなければいけないという圧力になるんじゃないか」という記事が出ていたり。発信してもしなくても怒られる感じがして、何だか不思議な同調圧力を感じたのも事実です。
「こう振る舞わなければならない」という”正解の空気”に基づいて常にジャッジされるような社会は、確かに息苦しいです。ただ、黙って見過ごしてしまうことで余計に息苦しさを生んでいるのではと考えなければなりません。感じたことを言い合える社会でありたい。
今回の騒動で、あるコメンテーターの発言でなるほどと思ったのが、「この女性差別発言で、男性は一つも損をしない」と。損をしないから気が付きにくいんだね。
男性優位社会だから、男の人は損をしない。一方、言っても言わなくても女は損をするという構図だね。
差別する側は損をしない。だから気が付かないし、やめられない。