『御文』に思う 比叡谷紗誓(京都教区)
女人の身は、十方三世の諸仏にもすてられたる身にて候うを、阿弥陀如来なればこそ、かたじけなくもたすけましまし候え。そのゆえは、女人の身は、いかに真実心になりたりというとも、うたがいの心はふかくして
(『御文』第二帖第一通『真宗聖典』777頁)
所属寺の報恩講ご満座を終えた翌朝、この通称「御浚えの御文」の一部分で、私は涙が止まらなかったことがあります。「すくわれがたいこの身だけれども阿弥陀仏はおすくいになる!」という嬉し泣きではなく、「女人は十方三世の諸仏にもすてられたる身」ということが際立って聞こえ、むなしさでいっぱいになったのです。疑問を感じながらも、「女性ならでは」とされている役割を懸命に務めた時だったので尚更、どれだけ力を尽くしても、はなっから女はダメ、と言われたように感じられたからです。女の身に生まれついたことを恨んだ瞬間でした。
「女は劣っている」という考えは、古くから世俗的に語り継がれてきました。それを反発できないほどに繰り返し聞くことで、昔から言われているから正しい言説だと思い込んでしまっているのではないかと感じます。またその根拠として、蓮如上人のお手紙の言葉を「仏教でも言われている」と知らず知らずのうちにすり替えてしまってはいないでしょうか。
それでも、女性という理由で一人の人間として認められないなんて、そんなはずはないと子どもの頃から漠然と抱いてきた思いが、私の中にはくすぶっています。
「拝読文は、拝読者自身が頂くもの」と教わってきましたが、私自身が頂けない部分だけを除くわけにもいかず、どうすべきか考えているところです。
『同朋新聞』2020年10月号