人間が人間であるために

私は“だれ”? 中川和子(三重教区)

 私はお寺の住職、連れ合いは会社員をしています。それぞれ別の職業であるにもかかわらず、私は「(お寺の)奥さん」「おくりさん」と呼ばれることが多々あります。「奥さん」といえば、「主人」の留守を預かって家の奥にいる人ということですが、寺の代表者は私なので、誰の「奥さん」ということなのかとモヤモヤした気持ちになります。

 私が祖母の生前、介護をしていた時のことです。祖母は、家まで送迎してくれた介護士さんに、「まったくうちの〝嫁〟は出迎えにも出て来ずに留守ばかりして悪いことです」と言っていました。でも、私は祖母の孫なのです。祖母がそのように言う背景には、「社会参加は男性が行い、女性は男性を支えていればよい」との意識が強かった時代に生まれたということがあったのかもしれません。男性は外で働き、女性は家の内を守るものという考えが公私にわたり根付いていたのだと思います。

 現代においても、「嫁」「奥さん」「おくりさん(坊守)」とは、家事、育児、介護、留守番、お茶くみ等々の「お膳立て」全般をしている者の呼称として使われています。

 そして、私がどの呼称でも呼ばれるという現状は、「女性」であるからだと思います。住職や「家の主」など責任のある職や位置にいるのは「男性」であるという前提からみると、私は特異な存在なのでしょう。

 女性の参政権獲得に尽力した市川房枝さんは、「言葉は思想を表現するもの」と言われています。私たちが、日常何気なく使っている呼び方ひとつであっても、性別や年齢、立場によって位置付けして言葉にしてしまっているのかもしれません。「私(女性)」は誰かに所属した存在ではなく、平等な関係を生きる一人称で在るということを常に確かめ続けていきたいと思います。

『同朋新聞』2018年3月号