人間が人間であるために

女は… 上田文(九州教区)

 「女は美容と自慢、愚痴、人の陰口しか話さない。まだ小学生の頃、こんな文章を目にして「私は随分つまらない性に生まれたな」とショックを受けたことを覚えています。この言葉のように女性という性が取るに足らないものとして扱われる感覚は、それ以降も私の心の底で燻り続けました。

 今ではこれが偏見に満ちた言葉だとわかります。しかし子どもだった私は、しばしばこのような言葉や態度に遭遇する中で、自分の中にも「女性的なものは取るに足らない、つまらないものだ」という価値観を芽生えさせていました。

 このようなミソジニー(女性嫌悪)的な認識は、例えば「女性は感情的だ」などと、うっすらと社会の中で共有され、何かの拍子に「これだから女は」と顔を出してきます。

 日本の仏教の中にも、「女は仏になれない」という考え方や女性の罪深さを特に強調する表現など、現代の視点から見ればミソジニーと捉えられるようなものがあります。宗派の教学においては、「男性の中にもある女人性について表現されているだけで性差別ではない」、「現代の感覚で問題にすることがおかしい」、「いや、やはり女性だけの罪を強調して救いを説くのは差別を利用した救済論ではないか」など少しずつ議論がなされています。

 代々読まれてきたお聖教を大切にいただくと同時に、これらの言葉が今まで私たちに具体的にどのように働いてきたのか、そしてこれからの人にどのような働きをしていこうとするのか。一度立ち止まって一緒に考えませんか

『同朋新聞』2019年10月号